乳がんを克服 山中まさ子さん(59)

乳がんを克服 山中まさ子さん(59)

■団塊第2章■
◇◆「それなり」がいい◆◇

 「来るときが、来たな」

 2001年6月中旬の朝。松阪市の山中まさ子さん(59)は、親類の不動産鑑定事務所に出勤前、自宅の風呂場で倒れた時、とっさにそう感じた。

 1年以上自覚症状があったが、忙しくて検診に行かなかった。でも、いつ入院してもいいように必要なものはまとめてあった。「正直、ほっとしたんです。やっと治療を受けることができるって」

 乳がんだった。

 すでに手のひら大のがんが体の表にまで出ていた。リンパに転移し、医師から「余命3カ月」と宣告された。患部を切除し1カ月半入院したが、臓器への転移はなかった。自宅療養後、半年後には仕事を再開した。

 津市で生まれたが、公務員だった父の転勤で県内各地を回った。銀行員の峯生さん(63)と結婚したが、長男の光茂さんが小学5年のころ、峯生さんが腰を痛めて銀行を辞め、その後、建築関係の営業や不動産事務などの仕事を転々とした。「裕福ではありませんでしたが、職を変えながらも家計を支えてくれた」と夫への感謝を忘れない。

 2人の子どもの子育ては、しからず、興味があることを伸ばすことを心がけた。医者の道を進むと思っていた光茂さんは、政治の世界に入り、昨年には「まっさかを変えなあかん」と現職を敵に回して松阪市長選に打って出た。だが、「あの子の性格上、あり得るよな。また、そんなことやりかけたんか」と驚かなかった。

 20年間勤めた事務所は、3年ほど前に辞めた。今は光茂さんの後援会事務所を手伝いながら、時々峯生さんと一緒に「ママチャリ」で20キロほど離れた伊勢神宮にも出かけ、山や熊野古道を歩く。犬の散歩も毎晩1時間欠かさない。

 乳がんの検診は半年ごとに受けているが、幸い、再発の兆しはない。同じように乳がんを患った母も88歳で健在なのが心強い。「だれもががんになる時代。再発にしても結局、交通事故と同じです」

 「小さいときから、目標とか夢とかを言うのは好きじゃない。それなりに生活ができれば、それでいい」と、あくまでどっしり構える。(聞き手・森山敏男)

■長男・光茂さん(33)

 長男の光茂さん(33)は、小学4年の時、ハエのたかるエチオピア難民のビデオを学校で見て「地球の裏側の貧しい人を助けたい」と医師を志した。

 慶応大法学部を卒業して、群馬大医学部へ。母が乳がんを手術した翌年、実習で担当した乳がんの女性がいた。リンパ節に転移した進行性のがん。母とダブり、自ら執刀、縫合手術をした。退院の日、「群馬の母として見守りたい。メールアドレスを聞かせて下さい」と、5年後に妻となる13歳年上のいずみさんから告げられた。

 大学卒業後、ケニアでエイズプロジェクトを立ち上げ、アフリカ諸国を回った。8歳の女の子が売春の見返りに魚を受け取る姿を目撃した。「負の悪循環。人種差別や貧困は生活をも壊す」と政治家を志す転機になった。プロジェクトは現地のNPOに受け継がれた。「人の痛みに寄り添って生きていきたい」

◆母の思い出◆

 子どもに読み聞かせた「ちびくろさんぼ」などの絵本 「光茂が2、3歳の時、友達に絵本を7、8冊いただいた。字が読めるようになると、本がすりきれるほど読んでいました。私も時々取り出して、当時のことを思い返しています。捨てるに捨てられないですね」(まさ子)

 「両親は共働きだったので、6歳離れた妹と一緒の時が多かった。絵本は妹に読み聞かせたり、2人で読んだり。おかげで本を読む習慣が出来ました。うちは家族の仲がいいので、家族みんなで過ごす時間がほかの家族より長かったと思います」

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