がんを生きる:/62 ICU症候群/上 「帰って」面会の両親拒否 /大阪

がんを生きる:/62 ICU症候群/上 「帰って」面会の両親拒否 /大阪

◇遮断された重症室、表情もうつろ
 04年夏、中学総体の兵庫県制覇を目指し、バスケットボール一色に過ごすはずだった。05年に亡くなった同県伊丹市の金川淳一君(当時15歳)。チームは03年秋の新人戦で県優勝し、強豪と目されていた。自信を持って総体に挑んだが、地区大会で敗退。それから1週間ほどした04年8月、胸に痛みを感じるようになった。

 試合での激しい接触プレーが多かったことから、初めは整骨院や整形外科を訪ねた。だが痛みは引かない。詳しい検査で、縦隔(じゅうかく)という胸骨に囲まれた部分に腫瘍(しゅよう)があると判明した。後の検査で、筋肉などにできるがん「横紋筋肉腫」と診断される。

 抗がん剤治療を始めるため、10月中旬、大阪府内の病院に入院した。小児科病棟は満床。14歳で「小児」でも年長なことから、しばらくは呼吸器外科病棟で大人と同室になった。副作用は強く、全身から玉のような汗が流れ、吐き気も止まらない。小児科と違い、付き添いの泊まり込みが認められず、家族の面会時間も半日程度。弱音を吐かないものの、うつぶせになった背中はつらさをこらえて小刻みに震えていた。

 「大きいといっても、まだ子ども」。母の富子さん(52)は気をもんだ。体調を見て許される外泊が、淳一君を何より元気づけた。「(帰るから)来てくれ」。携帯電話のメールで連絡すると、あっという間に、親友が家に集まった。

 ところが11月中旬、二度目の検査の最中に異変が起きた。胸部の大きな腫瘍が気管を圧迫したことが原因で、呼吸困難に陥った。短時間で終わるはずの検査が、人工呼吸器を取り付けて救命センターに運ばれる事態。「腫瘍を小さくする必要がある」。医師の説明を受け、2回目の抗がん剤投与も同時に始められた。

 救命センターの後も小児外科の重症室に移され、予断を許さない。面会は一般の病棟以上に時間も人数も制限され、一日2回の計2時間のみ。富子さんは時間いっぱい、淳一君の体をさすった。

 2週間ほどで腫瘍は小さくなり、人工呼吸器は外された。しかし、淳一君の表情はうつろだった。面会に来る父幸雄さん(57)や富子さんを「もういい」と拒む。幻覚も見ているようだった。

 数日後、姉の亜由美さん(27)と幸雄さんが部屋に入ると、淳一君は真っ赤な顔で泣きじゃくっていた。「僕は金川淳一じゃありません」「帰ってください」。医師からは、重症室で外と遮断されたり、薬で眠る状態が続いたことで起きる「ICU症候群」と言われた。【青木絵美】

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