球追い人:還暦野球30年/11 がん手術 町田忠さん /群馬

球追い人:還暦野球30年/11 がん手術 町田忠さん /群馬

<球追い人(びと)>

 ◇野球ができる幸せ--町田忠さん(77)
 人間ドックで胃がんが見つかった。07年1月。県還暦野球連盟副会長の町田忠さん(77)=太田市在住=は「これで人生終わりかな」と思った。翌2月、全身麻酔を受け、午前9時ごろから胃の全摘出手術が始まった。手術に要した時間は約5時間。集中治療室のベッドで目を覚ますと、心電図の電子音が聞こえた。安堵(あんど)感がこみ上げた。

 「酒を飲んでも大丈夫でしょうか。それから、野球もやりたいんですが」。退院して間もなく、古希野球チーム「オール太田ゴールドクラブ」の現役選手でもある町田さんは執刀医に切り出した。執刀医は怒った。「何を言ってるんですか。お酒はいいけど、野球はまだダメです」。ピシャリと言われた。

 町田さんが野球を始めたのは、1941年ごろ。当時9歳だった。父親が野球好きで、太田市の実家にはグラブとバットがあった。この年、日本は真珠湾を攻撃。45年4月、空襲を避けるために疎開した渋川市では、教師に「敵国のスポーツをするな」とバットを取り上げられ、燃やされた。

 敗戦直後の45年8月、町田さんは、隠し持っていたグラブを手に実家に戻った。旧制太田中の硬式野球部に入部したが、チームにスパイクは一足しかなく、右足は投手、左足は一塁手がはいた。貧しい戦後だった。

 群馬銀行に就職した51年、米軍が駐留していた旧小泉町(現大泉町)の支店に配属された。前年に朝鮮戦争が始まり、米軍将校が週1回、アタッシェケースいっぱいのドル札を両替にやってきた。血のりがついた紙幣もあった。米軍は当時、戦死した米兵の遺体を米軍基地に空輸し、基地内の病院に安置していた。「戦死した米兵のポケットから抜き取ったものだ」。通訳が教えてくれた。

 町田さんは群銀の軟式野球部に所属し、63~64年は監督を務めたが、65年以降は仕事が多忙になり、30年近く野球から遠ざかった。還暦を迎え、93年、昔の仲間に誘われ野球を再開した。

 「どこまで動けるんだろう」。手術の3カ月後、町田さんは還暦野球大会の会場に現れ、T字形の「トンボ」でグラウンドを整備した。これを見た還暦野球チーム「前橋ドラゴンズ」主将の小林敬三さん(65)は驚いた。小林さんは、郡銀時代に町田監督の下でプレーしていたが「大丈夫ですか」と声をかけると、町田さんは「胃をとっちゃった」とおどけて見せた。この1カ月後、町田さんは医師の許可をとって練習を再開した。

 「ビールをぐいっと飲めなくなったのがさみしい」。胃で食べ物を消化できず、よくかんでから飲み込むため、食事に2時間かかる。お酒はちびちび口に入れる。スタミナは落ちたが、打つことも投げることもできる。その幸せをかみしめながら、現在は還暦野球と古希野球合わせて3チームの会計事務を担う。

 町田さんによると、銀行と野球には共通点がある。それは「組織をどう回すかということ」。そして「出会いがあること」だ。さまざまな人生を背負った人たちが、グラウンドで白球を追いかける。

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